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天保通寶・琉球通寶

天保通寶は、天保 6年より金座掛銭座・江戸浅草橋場にて鋳造を開始、発行したのが最初です。明治3年に鋳造禁止となりましたが、明治4年12月19日よりは、8厘通用と発令され、明治24年12月31日まで通用しました。私の祖母などは、これを実際に使用したことがあると言っていました。また、大型の銭だったにも拘わらず、僅か8厘通用とされた為に、所謂、「うどの大木」風の人の事を「8厘銭」と揶揄したとの事です。
明治29年12月31日限り引き換えが停止となり廃貨となりました。幕府が公式に鋳造した天保通寶を本座銭と言います。金座と幕府は寛永通寶・文銭5?6枚を潰すと天保通寶1枚が鋳造でき、即ち、5、6文で100文が出来たわけで大いに潤いがあり盛んに鋳造しました。また、庶民もいままで見た事がない、小判型の銭だった為か、大変評判が良かったそうです。
幕末になると、幕府の力の衰えに乗じ、各藩は利潤のある天保通寶の発行許可を幕府に求めました。しかし、いずれも許可されませんでした。ただ、薩摩藩だけは、琉球統治の名目で許可になった琉球通寶を造りましたが、その裏では、大量の天保通寶を密鋳した記録が残されています。
薩摩以外の各藩でも盛んに密鋳が行われましたが、密鋳である為に、正式な文献や記録などがほとんど残されていません。寛永通寶の研究で培った材質、製作、書体などにより、また、母銭類の出所により分類することが進められて今日に至っています。また、諸藩で鋳造された銭でも不明なものがあり、これらは不知銭(ふちせん)と分類されています。

(あいこいんずニュースより)

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